2009年8月13日

メイの学校とADHD

今日、ようやく学校へ行きました!

今日は、教頭先生らしき人物と様々な準備にかんする会話を持つ日です。
私たちは少し緊張していました。


学校にはパーキングなるものがありません。
この時期、イタリア様々な場所から、ここへ海水浴に人々が押し寄せています。
それで、町中のパーキングはもういっぱい。。

私たちは1時間もかけて、ようやく空いている所をみつけました。
私は歩いて探す、、、マリちゃんは車で。

強い日差しにもうヘトヘトでした。


さて、学校に到着すると、肌着一枚にしか見えないオバサンがカウンターに座っていました(驚)
そして、ある一室に案内されました。

そこには教頭先生と同じレベルに当たる先生が!
またおばさまです。 しかし、このおばさまは、違います!
白いワンピースに、パープルの大きなアクセサリー。
パーマでふんわりした髪。高級感のただよう眼鏡。日焼けした胸の谷間。
このおばさまは「教頭!」って感じでした。

私たちはおよそ2時間話しました。

まずは、どの学年からスタートするのか。。
メイは全くイタリア語が話せない事を考慮し、もう一度2年生からスタートする事が望ましい、と言われました。
私は「可能であれば、1年生からがもっと良い。」と言いました。
先生は「2年生から始めてみて、どうしても無理そうなら、後で変える事はできます。」と言いました。

それで、学力テストは受けないで、2年生からスタートする事に。

また、学校も選ぶ事になりました。
ここよりもっと近い学校もあるのですが、様々なことを考慮し、ここに決めました。

また、クラブ活動も選べます。
ダンス、歌、PC、スポーツ、工作、絵、楽器、さまざまありました。
面白いのは、カラテ!

私はメイにカラテを勧めましたが。
メイはPCを希望。
多分、マリちゃんの影響でしょう。。

それから、学校の授業時間も選ぶ事ができました。

①8時30分〜13時30分。

②8時30分〜16時30分。

私たちは②を選びました。言葉を早く覚えるためと、私が仕事を探す為です。
また、ハヤの保育園の時間と同じだったので。

ようやく、話が一段落しました。
それから、私たちは重要な事を話さなければなりませんでした。

マリちゃんは言いました。
「日本で、メイは ADHD と診断されていました。現在、薬は飲んでいません。」

すると先生は「!!ADHD。。。。。。。」

固まってしまいました。
それから、「ADHDですか。それは大きな問題です。ちょっと待ってて下さい。」

先生はどこかへ☎しました。
そして、今度はショートヘアのおばさまが部屋に来ました。

そして、マリちゃんが長い時間話込んでいました。

私はマリちゃんから時々、質問を訳されました。
「日本では、特別学級でしたか」
「学校にはADHDの専門の先生はおられましたか」
「メイのADHDに関するドキュメント(診断書類)は持っていますか」
「授業中、または学力に問題が起きましたか」

そして、ショートヘアの先生はにっこり笑顔で言いました。
「お母さん、心配しないでください。月曜日、専門医が来ますので、もう一度ADHDのテストを新たに受けましょう。」

私たちは少し安心しました。

ADHD(注意欠陥多動性障害)に関して。

これは非常に難しいのですが。
なかなか普通には理解しにくい、軽度〜の障害です。

私も数ヶ月前、日本で同じ診断を受けました。
約60パーセントの遺伝性を持つらしいので、メイのADHDは、私から遺伝した可能性が大であり、非常に強い責任を感じています。

メイは私の幼少期そのものです。
とにかく、起きてから、眠るまでの時間。絶えずしゃべる、もしくは体が動いています。
非常にエネルギーが溜まっていて、活動的です。
自ら、これをコントロールするには、多くの経験と注意力が必要です。

また、親が力ずくでコントロールする事もできません。
本人の意識が向かなければ、意味がありません。

しかし、意識を向けるには、相当の時間が必要です。
また、怒鳴りつけたり、叩くなどは、2次障害を引き起こす為に、禁止されています。

私自身はこの2次障害の典型的な1例だと思っています。

また衝動的です。
衝動を抑える事が非常に難しいです。
これは前頭葉の問題ですが、うまく働いていないために理性のコントロールがただしくできません。
これもコントロールでききるようになるには長い経験と訓練が必要です。

あとは不注意。
とにかく、不注意そのものです。
周りに注意を払ったり、危険を予測する事が非常に難しいです。
他人の気持ちを予測することも非常に難しいです。すぐに忘れる、物をなくす、気を使うこともできません(ここが一番問題)

とにかく、わかりやすく一言で言えば
「非常に育てにくく、大人に好かれないKYな子供」
という感じです。

こちらに詳しく載っていますので、ぜひ一度、閲覧をお願います。

https://www.adhd.co.jp/about/default.aspx



ここからは暗い話です。

しかし、わたしも人の子ですので、しばしば、叱りすぎたり、怒鳴ってしまうことがあります。良い親になりきれていません。
しかし、私はメイの為に、努力はしています。

私自身、幼少期これらの症状に非常に振り回されました。
しかし、
ADHDなどというものは当時、診断がありませんし両親、姉妹皆が私に困っていました。
私はどんなに叱られても、叩かれても、脅されても「何が悪いのか」が全くわからないまま育ちました(理解できなかった)
非常に厳しく躾にうるさい家庭に育ったため、更に私は浮きだっていました。

小学生の時。
「この子はキツネが取り憑いているかもしれない。お祓いに行かないと。」
「叩かなければわからない、動物と同じ。」
こう言われて育ちました。

中学生の時。父親が言いました。
「お前のような馬鹿は、頭を丸坊主にしてやらなければ治らない。叩いても解らない。」

私はすぐに抵抗を止めて「はい、どうぞ」と頭を差し出しました。
私は思っていました。
「こんな馬鹿な父親はあきらめるしか無い」

なんかおかしいですね。
でも、当時本当にこう思っていました。

私は親から離れた高校に入学させてもらい、2年後教師への暴力事件を起こし退学。
それからすぐに一人暮らしを始めました。

それからも反社会的な性格は治らず。
悪い事をする事で、精神のバランスを保っていたように思います。

20代になってからは自暴自棄になり、攻撃の矛先は「社会」から「自分」に向けられるようになりました。
すでに大阪に移っていた私は、他人にだまされたり、やくざに追われたり人間不信に陥っていました。

他人とトラブルが続き、正しい人間関係を築くことができませんでした。
自分が招いている事もうすうす気づいていましたが、
何をどうしたら良いか、わからなかったのです。
その矛盾差が自分を責める原因になっていました。

それでも強気の私は、なんとか意地を張って生きていましたが。

最後は完全に自分を見失い、ひきこもって自殺未遂を繰り返すようになっていました。
病院に運ばれても、友達に目を覚ませと怒られても、止める事ができませんでした。

悲しく、暗い過去です。

なぜこの事をここに書いたのか。
私は
ADHDの2次障害そのものです。

もっと世間にADHDを理解してもらいたいです。
本人の性格の問題だとか、家族の問題だとか、未だに理解のない日本社会です。

周りから責められて本人も、家族もつらい思いをします。
でも、身体障害のように目に見えませんから、仕方がないっちゃ仕方ないので、ここに少し書きました。
現在、脳写真で証明できるようになったそうですが。
私はADHDです!と、名札を付けてもらえるわけではありません、、、

また、わたしはメイに同じ思いをしてほしくないんです。

自分の子供が「死にたい」なんて思ってるほど、つらい事はありません。。。







0 件のコメント:

コメントを投稿